分野を横断する観光

前回の記事「Elixir から Elm の流れで、いよいよオブジェクト指向に対する懐疑心が無視できないレベルに達した2017年冬。」に想像を超える反響があり、驚いています。

内容が内容なだけに、色々と物議を醸したかもしれません。宗教論争的だと思われた方もいるかもしれません。

記事の冒頭で「外国語を勉強することで、初めて日本語というものを客観的に見る機会を得たという体験に似ている」と書きましたが、前回の記事で重要だったのはその内容よりも、分野を横断することで初めて得られた視点だと思っています。

「分野を横断する」という場合、筆者はいつも、東浩紀さんの「観光」という言葉を思い出します。

ここで言う「観光」とは、一般的な観光よりも広い意味で、普段自分が所属しているコミュニティを離れて分野横断的に物事を見ていく視点のことです。

観光というのは、評判が悪い言葉です。… しかし、観光はそんなに悪いものでしょうか。観光はたしかに軽薄です。観光地を通り過ぎていくだけです。しかし、そのように「軽薄」だからこそできることがあると思います。社会学者のディーン・マキァーネルが、観光には、いろんな階級に分化してしまった近代社会を統合する意味があると述べています(『ザ・ツーリスト』)。ひとは観光客になると、ふだんは決して行かないようなところに行って、ふだんは決して出会わないひとに出会う。たとえばパリに行く。「せっかくだから」とルーブル美術館に行く。近場の美術館にすら行かないひとでもそういうことをする。それでいい。美術愛好家でないと美術館に行ってはいけない、というほうがよほど窮屈です。観光客は無責任です。けれど、無責任だからこそできることがある。無責任を許容しないと拡がらない情報もある。- 弱いつながり 検索ワードを探す旅

今、ソフトウェア技術の世界は多様性に満ち満ちています。いろんな技術が現れては消え、その変化のスピードも以前から考えると比較にならないほど速い。今では一人の技術者が複数の技術コミュニティに所属することも珍しいことではありません。そういう意味では分野横断的と言えるかもしれない。でも、ここで言う「観光」はそれとはちょっと異なるニュアンスを含んでいると思います。

観光客はそこで見たこと感じたことを、にわかな知識で軽薄に語ります。エビデンスも客観性もありません。なので、それぞれの専門性を追求する専門家にとってはとても不愉快な存在に映るかもしれません。特に技術者コミュニティでは、そのような雑感を「ポエム」として揶揄する風潮がありますし、とても歓迎された態度とは言えないでしょう。

でも、筆者は、これは完全に東浩紀さんからの受け売りですが、こういう視点こそが今必要とされているのだと考えています。

今、筆者の所属するシステム開発の現場では、人が職能によって分割されて、それぞれがそれぞれの専門領域に閉じこもらざるを得ない状況があります。これは「組織」というものの性格上、ある程度仕方のない部分もあります。だけども、何か新しいものを生み出すと言った場合、いろんな専門領域の人たちが「横に」連携し、状況に合わせて柔軟に役割を変えていく、有機的なチームとして機能しなければならないと感じています。その時に、それぞれの専門家が自分の専門領域以外の人たちに届く言葉を持っていなければ、そのような連帯は実現できません。その言葉を得るために「観光客」的な視点というものが重要なのだと個人的には考えています。

観光客的な視点を持つと、宗教論争というのは、各人が各人の専門性に閉じこもっている時に起こることだと気づきます。それは一つ別の視点を持てば相対化できることです。

観光客的な視点を歓迎せよとまでは言いません。観光客はそれぞれの専門領域で真摯に研究を行っている人を、ある意味、無意識的に「軽んじて」しまう傾向がありますし、それはとても不愉快なことです。しかし、専門性が多様化(あるいは細分化)された今だからこそ、このような視点を考慮せずに生活者に届くシステムを作り上げることはできない、というのも重要な観点だと思うのです。

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