適応 2.0: 職能分割型組織は何故生き残れないのか?

色んな役割の人たちが、力を合わせてより大きな意思決定を行う。

経済学から心理学、そして認知科学からコンピュータ科学まで、あらゆる分野の知見を総動員して組織とその経営について論じ、1978年にノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモン氏は、組織の存在意義をそのように説明した。

古典的な経済学において人間は完璧な存在だった。あらゆる場面で常に最良の意思決定を行う。しかしサイモン氏は、現実の人間はそのような合理性を想定するにはあまりに非力過ぎるため、その非力さを前提に経済活動を分析した方が良いのではないかと考えた。

これが彼の代名詞的な発見とされている「限定合理性」と呼ばれる考え方だ。

マーケットが要求する難しくて大きな意思決定を、小さな意思決定に分割して組織の各部署に分担させる。分割された意思決定に必要となる知識は少なくて済むために、「非力な」個人でも比較的合理的に判断が行えるようになる。

人間はそのようにして、マーケットと呼ばれる環境に適応して行く。

組織は、すべての重要な意思決定が中央においてなされる、高度に集権化した構造のものではない。高度に集権化された方法で機能している組織は、再び、手続的合理性の枠をこえ、階層的な権限の使用から得られる多くの利点を失うことになる。現実世界の組織は、それとはまったく違った動きを示すのである。

1つの決定は、多くの事実前提と選択基準によって影響されるから、これらの決定前提のうちの一部が上司によって規定されるからといって、それが完全な集権化を意味するものではない。組織は、決定を分散させることによって、市場と同様、情報の需要を局所化し最少化することができる。実際の事柄は、組織内のそのための技能と情報がもっともよく集まったところでまず決められ、次にそれを「集合点」に伝達し、もって特定問題に関するすべての事実を統合する、そしてこれらを踏まえて1つの決定が下される。われわれは1つの決定を、それぞれが特定のタスクをもちかつローカルな情報源に依存しているサブルーチンを備えた、大規模なコンピュータ・プログラムを実行することによって造り出された生産物、と考えることができる。いかなる1個人あるいは1集団も、その決定にかかわるすべての面で専門家である必要は、まったくないのである。

このようにして企業組織は、市場と同様、巨大かつ分散化されたコンピュータなのであって、その意思決定過程は実質上分権化しているのである。

システムの科学

意思決定に関わる「情報の需要を局所化し最少化する」ための仕組みが、役割の分担であり、仕事の専門分化である。それが20世紀のマーケットを生き延びるための「適応」の技術だった。そして、職能分割型組織は、21世紀になった今でも主流を占めている(少なくとも日本では)。

職能という考え方は、役割、あるいは専門というものが安定しているという前提に立っている。

例として、ソフトウェア開発会社について考えてみよう。そこにはプログラマーや営業、マーケターといったような、役割ごとの部署があるはずだ。このように組織が職能で分割されている場合、例えば、プログラマーという一つの役割に期待されるものが、かなり限定されていることに気がつく。

プログラマーはプログラムを書くが、どのようなプログラムを書くのかは別の人が決定出来るはずだと、職能分割型組織は考える。設計をする人と、それをプログラムという形に落とし込む人。そのように分担すれば、人はそれぞれの役割に集中出来るはずであると。そして、プログラマーはプログラマーである限り(その部署に居続ける限り)、その役割が変化することはない。

しかし、多くの人が認識する通り、21世紀になってこの「固定化された役割」という前提はとっくに崩れている。

それまで当たり前だと思われていた役割の境界はいとも簡単に融解して、それまでには存在しなかった専門領域が次から次へと出現するようになった。

ソフトウェア開発における DevOps ムーブメントも、その流れを象徴的に示すものだ。DevOpsは、Dev と Ops という異なる役割の間にあった分断を乗り越えて手を携えなければ、変化の速い環境に「適応」出来ないという問題意識である。

あるいは、先端的な機能横断型組織において、役割がオーバーラップしてしまうという現象も起きている。

これらの現象は全て、今まで境界だと思っていたものが境界で無くなることが原因で起きている。専門分野が増えるというよりも、個人に要求される役割が変化しているのである。

このような状況にあって、多くの組織が職能分割の構造から脱却出来ないのは何故なのだろうか?

それは、人間の考え方や行動様式が、所属する組織の構造に支配されてしまうからだと筆者は考える。人間は本質的には不自由な存在だ。職能分割型組織に長く所属していれば、その構造がその人にとっては現実になる。役割の境界が変わって行くことに気づく事は難しくなるだろう。だから、現在の変化に対して役割を変化させるというよりも、役割を超えた連携をしようという発想にならざるを得ない。

この問題に対処するのに、今のところ最も有効なのはおそらく「チーミング」という考え方だろう。

チームが機能するとはどういうことか――「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチ
チームが機能するとはどういうことか――「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチ

この本で、チームは以下のような機能を提供するものとして紹介されている。

  • 目標を共有する場
  • 学習の場
  • 自由に発言できる場(心理的安全)
  • 境界を乗り越える場

Googleで行われたチームワークに関する調査、「Project Aristotle」で指摘されていたように、上の項目の中で「心理的安全」は、チーミングにとって最も重要な考え方になっている。

職能分割型組織、チーミングの本では「ピラミッド型組織」として紹介されているが、そういった組織が何故駄目なのかと言えば、構造的にも、あるいは心理的安全という見地からも、今の状況に適応するためにはあまりにも不自由過ぎるからだ。

従来的な「プログラマー」の部署で働いている彼は、ひょっとしたらプログラマーという役割に留まらず、それまでは想像もしなかったような役割で企業に貢献出来たかもしれない。組織の変革者となる可能性は誰にでもあるのに、職能分割型組織はその可能性をことごとく潰してしまう。

チームというのは各人の役割をダイナミックに変えて行く仕組みだ。

チームがその仕組みを遺憾なく発揮するためには、チームに与える裁量を出来るだけ大きくする必要がある。その裁量によってチームは試行錯誤し、各メンバーの役割は状況に応じて柔軟に変わり、仕事のやり方それ自体も改善され、より状況に合ったアウトプットを生み出せるようになる。このような環境において、「指示 => 実行」というモデルで管理していた従来型のマネジャーの役割は大きく変わる事になる。そのような役割の変遷を表したのが、John Cutler氏の以下の表だ。

The Evolving Product Manager Role
The Evolving Product Manager Role

果たして、ピラミッド型組織のマネジャーがこのような変遷を遂げる事が出来るのだろうか? おそらくこれがチーミングの中で最も難しいチャレンジになるのではないかと筆者は予想する。

『システムの科学』を読み解く (2) – 経済学ってそもそも何なのか問題

第2章は経済学についての話。

経済学に登場する、消費者や企業、市場といったものを、外部環境に適応する人工物と捉えて、その適応のメカニズム(前回の言葉で言えば「インターフェース」)を経済学的に考える。

ところで、筆者は経済学のことを何も知らない。いや、「何も」知らないというのは語弊があるかもしれない。この「ゆびてく」でも以前、「取引コスト」や「フランチャイズ」、あるいは「規模の経済」という話題に触れてきた。

入門的な本も過去に何冊かは読んだ事がある(内容を覚えているかどうかは別にして)。しかし、この第2章の内容を検討している間に分かった事は、自分がいかに経済学というものを理解していなかったのかという事実だった。なので今回の話は、大学などで経済学を勉強した人にとっては何を今更という話になるかもしれない。でも、筆者にとっては目から鱗の体験だったのである。

今回はその筆者の試行錯誤の記録を通して『システムの科学』の議論を紹介してみたいと思う。何故『システムの科学』が重要なのかと言えば、それが「分野横断的」だからである。そして分野を横断するときに、おそらくこのような試行錯誤を避けては通れない。

そもそも経済学とは何なのか?

『システムの科学』第2章では、「適応」を実現する最も重要な概念として「合理性」というものが登場する。経済学によれば、人間が合理的な生き物であるが故にマーケットの中で需要と供給の均衡が実現できるのだと言う。いわゆる「神の見えざる手」というやつだ。

supply_demand

このとき、古典的な経済学では合理性というものを以下のように考える。マーケットの中で合理的に行動するというのは、客観的に存在し得るあらゆる選択肢の内、その人にとっても最も得になるものを選択することである。これを『システムの科学』では「実質的合理性 (Substantive rationality)」と呼んでいる。「実質的」という言葉がどうもぴんと来ないので、ここでは代わりに「完璧な合理性」と呼ぶ事にしよう。

さて、経済学の最重要概念だったこの「完璧な合理性」に異議を申し立てたのが他でもないサイモン氏だ。冷静に考えると「客観的に存在し得るあらゆる選択肢」を想定する事も無理筋なのに、損か得かを判断するためには、それらの選択肢が将来的に及ぼす影響も完全に想定していないと「最も得になる」かどうかなんて分からないぞ、と。そもそも人間は、経済学が想定するような完璧な合理性を実現するには程遠い能力しか持ち合わせていないんだから、合理性は限定的に成らざるを得ない。つまり、「限定的な合理性 (Bounded rationality)」というものを想定しなければならないのではないかと。

このくだりに遭遇した時の筆者の反応は「え… ん? 当たり前だよね?」というものであった。しかも、調べてみれば、サイモン氏がノーベル経済学賞を受賞するきっかけとなったのは、この「限定的な合理性」の発見だと言うではないか。

「何が凄い発見なのか全然分からない…」ということで頭を抱えてしまった筆者は、そもそも経済学の議論を理解していないと話にならないのかもと思い、何冊かの入門書に当たってみる事にした。そこで出会ったのが以下の本である。

ミクロ経済学の力
ミクロ経済学の力

最終的に辿り着いたこの本で、ようやく理解したのは「経済学というのは計算可能性を問題にしている」ということだった。つまり、有名な需要と供給のモデルも、ある前提条件の下に数学的に計算可能であるから「経済学的に」意味があるというわけだ。今までそんなことも知らなかったの? と思われるかもしれないが、経済学の多くの入門書では案外この事が説明されていないのである。一般の人が手に取る多くの入門書では、元々は計算から導かれたと思われる法則を応用した政策の提言的な内容が多く、そこから計算という雰囲気は極力排除されている。おそらく数学的に説明しようとすると多くの読者が逃げてしまうからだろうと想像するが、そのために経済学とはそもそも計算モデルを開発する事なのだと言う理解にはなかなか辿り着けない。

ミクロ経済学が(合理的行動の原理や数学モデルを使って)導き出す結論の多くは、例えば「価格が上がると、供給が増える」というような、常識でも十分理解できるものが多い。物理学のように「光速に近いロケットに乗ると時間の進み方が遅くなる」などというアッと驚く結論がつぎつぎに出てくるわけではない。ではなぜ、数理モデルなどわざわざ使って持って回った分析をするのか、はじめから常識をなぜ使わないのかというと、それはわれわれの議論に「大きな見落としや、論理の穴」がないかをチェックする有効な方法だからである – ミクロ経済学の力

この経済学的なモデルの役割に気づけなかったのは、自分がソフトウェア開発者だからという事もあるかもしれない。ソフトウェア開発というのは日常的にモデルを扱う仕事だ。しかし、ここでのモデルは他人とコミュニケーションするための言語としてのモデルである。意図が通じれば良いのでモデルの厳密性などは問題にならない。重要なのは、相手の文脈を踏まえて「納得のできる」モデルを提示する事だけである。

限定的な合理性が開く可能性

さて、これで「限定的な合理性」の重要性が少しずつ見えて来た。計算可能性を重視するからこそ、「完璧な合理性」とそこから生まれる完全競争のモデルから脱却するのはなかなか難しいだろうと想像出来る。つまり、そこでは計算可能性を実現するために、人間あるいは社会をかなり単純化して見ているわけだ。そこには当時の環境から得られる経済学者自身の計算能力の問題もあったのかもしれない。

サイモン氏が「限定的な合理性」という考え方を発見したのは、彼が1950年代に、経済学の知見を経営学に応用しようとしたのがきっかけになっている。経済学のモデルを別分野の現実的な問題に応用しようとして初めて色々な問題が見えて来た。現実の人間は、経済学の合理性を実現するには圧倒的に能力が足りていない。もっと現実的なモデルを作るためには、人間そのものの限界、つまり「内部環境」の条件について我々は知らなければならない。

人間の限界を明らかにしてそこから計算可能なモデルを開発しようとすれば、経済学から離れてあらゆる分野の知見が必要になってくる。その必要性が彼を心理学やコンピューター科学に向かわせ、さらには人間の脳の中で行われる情報処理、つまり認知科学や人工知能と言った新しい分野を開拓させる原動力になった。

サイモン氏は、1956年に開催されて「人工知能 (Artificial Intelligence)」という研究分野の起源となったダートマス会議において、世界初の人工知能プログラムと呼ばれる「Logic Theorist」のデモンストレーションを行っている。

企業組織の研究と人工知能の研究はかけ離れているように見えるが、どちらも人間の問題解決能力と判断力の性質への洞察を必要とする。サイモンは1950年代初めにランド研究所でコンサルタントとして働いており、普通の文字や記号を使ってプリンターで地図を描いたのを見ている。そこから彼は記号を処理できる機械なら意思決定をシミュレートできるだろうし、人間の思考過程すらシミュレートできるのではないかと考えた。 – Logic Theorist – Wikipedia

 

手続的合理性

前回の人工物のモデルに経済学の考え方を導入すると以下のような形になる。

outer-inner-economy

外部環境はその経済主体(経済活動を行う人や組織)と関わりを持つ他の経済主体の集合によって定義される。そして、内部環境は主体の「目標」と「能力」によって定義される。

古典的な経済学のモデルだと、主体の「能力」は考慮されず(あるいは全知全能と言っても良いかもしれない)、「目標」はそのまま「完璧な合理性」を意味する。外部環境と目標だけ分かれば、その主体についての行動を予測する事が可能な、完全競争のモデルである。それとは対照的に、「限定的な合理性」を考慮する場合は、経済主体の「能力」が問題になってくる。

つまり、合理性というのは人間がどのように振る舞うのかということを計算可能にするルールのようなものだ。完璧な合理性の下で、そのルールはかなり単純なものであった。では、限定的な合理性の下でそのルールはどのようなものになるだろうか?

完璧な合理性、つまり全知全能モデルでは、人間は常に最適な選択肢を知っているので単にそれを選ぶという話だったが、全知全能でない、限定的な合理性しか持ち合わせない人間の場合、自分にとって出来るだけ得になるような選択肢を探すそのプロセスが大事になってくる。つまり、ここで合理性の問題は「選択肢の優劣」から「良さそうな選択肢をどう探すか」という問題にシフトしている。この「良さそうな選択肢をどう探すか」問題を『システムの科学』では「手続的合理性」と呼んでいる。

満足出来る選択肢を探す

サイモン氏は、「良さそうな選択肢をどう探すか」問題を、以下の二つに分けて考える。

  • 探索: 限られた能力で選択肢をどう探すか?
  • 判断基準: 見つけた選択肢を選択するかどうかの判断はどのように行われるのか?

完璧な合理性の下では、客観的に考え得るすべての選択肢を知っているという前提なので「探索」をする必要はなく、選択肢の中から最適なものを選ぶ際も「効用関数」という統一的な判断基準を持っている。しかし限定的な合理性の下では、主体は自分の持つ能力を駆使して選択肢を探さなければならない。例えば、旅行に行く計画を立てるとして、あなたは自分の目的に沿ったプランを出来るだけ安い予算で実現させたいと思う。この場合、交通手段や宿泊場所といった選択肢をどうやって見つけ出せば良いのだろうか?

この選択肢を見つけ出すコストを、経済学では「取引コスト(transaction costs)」と呼んでいる。このコストを肩代わりするためにマネジメントや会社組織の存在が必要になる、という話を「UberやAirbnbが経済にもたらす革命的なインパクト」で書いた。旅行の場合は、取引コストを肩代わりする旅行代理店という組織が存在する。ところが、インターネットの出現によって、そういった探索が劇的に効率的になり、マネジメントや組織の存在意義を揺るがす事態になった。

限定的な合理性の下で、どの選択肢を選ぶのかという判断基準について、サイモン氏は「満足化」というモデルを提案している。これは簡単に言えば、人は見つけ出した選択肢の中から「満足」出来そうなものを選ぶ、という至って当たり前的な行動パターンである。重要なのはこの「満足化」をいかに計算可能にするかということで、氏は心理学の「要求水準」というモデルを援用している。

要求水準は、人が何かに満足するかどうかについて、その人の過去の実績(経験)を元に基準を設定するという考え方である。過去の実績を上回れば満足し、下回れば不満となる。つまり、同じものに対しても人によっては満足したりしなかったりすることになる。これは「主観」というものをなかなかにうまくモデル化しているのではないかと思う。

心理学には要求水準の程度を測る「内田クレペリン検査」というものがあり、今でも職業適性検査として活用されている。

簡単な一桁の足し算を1分毎に行を変えながら、休憩をはさみ前半と後半で各15分間ずつ合計30分間行う検査です。全体の計算量(作業量)、1分毎の計算量の変化の仕方(作業曲線)と誤答から、受検者の能力面と性格や行動面の特徴を総合的に測定します。

 

まだまだ先は長い

というわけで、今回は経済学ってそもそも何なのかという話から、サイモン氏がそれまでの古典的な経済学を支配していた「完璧な合理性」に代わる「限定的な合理性」を提案し、能力が限定的である人間の振る舞いとはどのようなものであるかを、あらゆる分野を駆け巡って考え抜き、最終的に「要求水準」による「満足化」の理論に辿り着くところまで紹介した。この成果はノーベル経済学賞として評価されているわけなので『システムの科学』の中でも相当に重要な議論である事は間違いない。しかし、まだ第2章に入ったところで先はまだまだ長い(全8章)。こんなところで息切れしている場合ではないのだが。。それにしても疲れた (;´д`)

(まだまだ続きたい所存)

『システムの科学』を読み解く (1) – 人工物の本質はインターフェースである

『システムの科学』という本をご存知だろうか?

ノーベル経済学賞の受賞者、ハーバート・A・サイモン氏によるシステム論の古典的名著、ということでその筋では有名な本であるらしい。初版が出版されたのが1967年というパーソナルコンピューティングの黎明期に当たる時代で、筆者が所持しているのは、改訂が重ねられて1996年に出版された第3版の邦訳本である。

システムの科学
システムの科学

原著のタイトルは『The Sciences of the Artificial』といい、『システムの科学』というよりも『人工物の科学』といった方がより原題に近いように思われるが、邦訳で前者を選択した経緯については訳者あとがきで説明されている。

「システムの科学」と言っても、何の話なのかぴんとこない人もいるかもしれない。「システム」とは、ある特定の目的を達成するように、複数の要素(部品)が組み合わさって出来たものだ。つまり「システムの科学」とは、今日「デザイン」と呼ばれているものの仕組みを、あらゆる学問分野の知見を総動員して論じたものだと言えば分かりやすいだろうか。

邦訳本のカバーには以下のような紹介文が書かれている。

「人工物の科学はいかに可能であるか」
本書は必然性ではなく、環境依存性 —「いかにあるか」ではなく「いかにあるべきか」— に関与するデザインの諸科学、すなわち人工物の科学(The Sciences of the Artificial)の本質を明らかにし、その可能性を問うものである。

筆者は10年以上前に、上の紹介文に惹かれてこの本を購入してみたはよいものの、難しくて最後まで読み通す事が出来なかった。何度繰り返し読んでもぼんやりとした感覚的な理解(分かったつもり)以上のものは得られなかったのである。最近、この本の存在を思い出して久しぶりに読んでみたら、相変わらず難しいとは感じるものの、当時よりも格段に理解出来るようになっていた。更に言えば、いくつかの事柄については腑に落ちるようになっていることに気づいた。

『システムの科学』で議論されていることの多くは、ソフトウェア開発者、あるいはプログラマが日常的に遭遇する問題とほぼ重なっている。ただちょっと異なるのは、その辺の技術書と比較して少しフレンドリーさに欠けているというぐらいである。というわけで、この連載では数回に分けて、この難解な本をソフトウェア開発の現場で役に立つような形で読み解いて行きたいと思う。

人工物とは何か?

そもそも人工物とは何か? 人が作ったものである、以上。

で終わってしまいそうであるが、それだけだと何の役にも立たない。辞書を引いてみると、対義語は「自然物」とある。人工物と自然物の違いは何だろうか?

『システムの科学』は自然科学の話から始まる。自然科学とは、この世に存在する事物を「分析」して、一見複雑に見える現象の背後にある、単純な法則を見つけ出そうとする学問分野だ。分析によって見つけた法則は一体どこから来たのだろうか? 例えば、万有引力の法則は、そのようなものが存在する事は説明してくれるが、それが何故存在するかについては説明してくれない。自然科学においてはそれらの法則がただそこにあると認識するだけである。

一方、人工物には存在理由がある。つまり「目的」が存在するのが人工物の特徴だ。

自然界にある法則を組み合わせて目的を達成しようとする。その時に生み出されるものが人工物である。サイモン氏は、このような人間の営みに科学的な解析を施して背後にある法則を探ろうと試みる。これが「人工物の科学」である。

人工物の本質はインターフェース

あらゆる人工物に共通する特徴は何だろうか? サイモン氏によれば、目的の達成というプロセスは、以下の三つの要素の関係によって成り立つという。

  1. 目的(ゴール)
  2. 人工物の特性
  3. 人工物が機能する環境

この三つの要素の関係を踏まえて人工物を表現したのが以下の図である。

outer-inner

とても単純な図である。人工物とそれが機能する環境は「インターフェース」という境界で区切られる。人工物の内部を「内部環境」と呼び、外側を「外部環境」と呼ぶ。

外部環境と内部環境がうまく噛み合って人工物が期待通りの振る舞いをするとき、その人工物は目的を達成することになる。ここで重要なのは、人工物が期待通りの振る舞いをするとき、そこに関わっている条件は外部環境と内部環境のほんの一部分に過ぎないという事だ。その目的を達成するために必要な、最低限の条件を表すのが「インターフェース」という両環境の接面であり、ここに人工物の本質が現れることになる。

interface

例えば、移動手段としての車について考えてみよう。この場合、外部環境で目的の遂行に関わって来そうなのは、移動範囲の地面の状態、という条件がまず思い浮かぶ。そして、内部環境として車輪の存在を前提にすれば、地面の状態にあった車輪の素材と形状、そしてそれを楽に駆動させる何らかの仕組みがあれば、移動という目的には事足りる。このように考えると、移動手段として車を捉えた場合、我々が一般に思い浮かべる車のほとんどの要素はその目的とは関係のない事が分かる。

外部環境が決まれば、そこに適応しようとする人工物の目的から鑑みて、内部環境の知識はほとんどなくともその人工物の振る舞いを予測することが出来る。逆に言えば、この合目的な振る舞いを維持する限り、内部環境はどのようなものでも良いということになる。例えば、飛行機と鳥は、同じ環境において「空を飛ぶ」という共通の目的を持ちながら内部環境は全く異なる。

今、「鳥」という例を出したが、実は人工物でなくても、何らかの状況に適応していると見なし得るすべてのものについて上の図式が当てはまることに注意したい。その意味で、『システムの科学』で展開されている内容は「何らかの状況に適応していると見なし得るすべてのもの」についての考察であって、人工物に限った話ではない。それが邦訳者が「システム」という言葉を選択した理由だろうと思う。

さて、ここまで読んで頂けたプログラマの方々には、このような人工物の捉え方に比較的親近感を感じる方が多いのではないだろうか? というのも、この人工物の捉え方はオブジェクト指向のモデルとほぼ一致するからである。ということは、オブジェクト指向の「オブジェクト」というのは、人工物あるいは「何らかの状況に適応していると見なし得るすべてのもの」のメタファーだと言って差し支えないように思える。

プログラマは、ミクロのレベルで、インターフェースのデザインという問題に日常的に向き合っている。この試行錯誤によって身についたノウハウはマクロのレベルにも応用出来るはずである。プログラムだけでなく、プロダクトや組織のデザインもサイモン氏のモデルによれば本質的には同じ構造になっている。注意しなければならないのは「目的」を誤らないということだけである。

コンピュータは最も純粋な人工物

『システムの科学』には、機械のように物理的な人工物だけでなく、組織や社会といった実体のないものまで、ありとあらゆる人工物が登場する。その中でもコンピュータは「記号システム」という特殊な存在として紹介されている。

記号システムとは、記号(文字やマークなどの物理的パターン)を処理するシステムで、記号を保存したり、変更したり、出力することが出来る。一般的には「情報処理システム」と呼ばれるものである。コンピュータだけでなく、人間の脳も記号システムだと言える。

記号システムは、記号が表現出来る範囲において、どのような外部環境にも適応する事の出来るアメーバのような究極の「適応システム」である。先ほど紹介した人工物のモデルで言えば、インターフェースをどのようにも変更出来るシステムだということになる。まさに人工物のモデルをそのまま体現したかのような純粋な人工物だ。

昨今のITの世界に目を向ければ、あらゆるものがソフトウェア化していく時代である。一昔前はハードウェアの領域だったものの多くが、今ではソフトウェアとして表現され、操作されるようになっている。つまり、世の中の多くのものが記号で表現・操作出来るようになってきた。思えば、ガラケーからスマホへの移行も、インターフェースのアメーバ化として捉えられる歴史的な出来事だった。そう考えると、『システムの科学』のような、人工物に関する抽象的な議論の重要性というのは、かつて無いほどに高まってきていると言えるのではないだろうか。

『システムの科学』を読み解く (2) – 経済学ってそもそも何なのか問題