- Lean Documentation
ドキュメンテーションをうまく機能させるのは本当に難しい。
たまチームの開発は、同じフロアにいるマーケティングチームからの要求に従って行われている。ミーティングなどで要件のヒアリングを行い、それを簡単なタスクの箇条書きに落とし込む。PDCAサイクルを一週間(場合によっては二週間)ごとに行うイテレーション開発を採用しているので、全ての要件を一度に明らかにせず、次のイテレーションのタスクが埋まる程度にヒアリングを行う。ミーティングではイテレーションの成果を踏まえて次の要件やタスクを考えるので、想定外の事象が発生しても早い段階で軌道修正を行える(ここに落とし穴があったのだが、これはまた後日)。
いわゆるアジャイル的な開発である。進捗は可視化されていて、軌道修正もしやすく、見当違いなものを作ってしまうリスクも抑えられるので、なかなか効果的な開発方法に思えるが一つ大きな問題があった。それは、きちんとしたドキュメントを残すタイミングがなく、ほとんど全てが現物主義になってしまうことだ。
そもそもアジャイルという手法に現物主義の傾向があるとも言える。動くソフトウェアとクリーンなコードが何よりも現状を雄弁に語るという考え方だ。
しかし、それはある程度小規模な開発であれば当てはまるかもしれないが、一年以上に渡って開発し続ける複雑なシステムではなかなか難しい状況になる。たとえ動くソフトウェアがあったとしても全貌を把握することは難しくなるし、全てのコードをクリーンに保つことも現実的には難しい。
ある日、こういうことがあった。開発がスタートしてから一年半が経過し、システムの機能も大分増えてきた頃だ。
マーケティング担当者「そう言えば、この機能って XXX のような仕様だったと思うんですけど。」
開発者「え、そうでしたっけ。私は YYY と聞いたように記憶してるんですが。」
マーケティング担当者「うーん、それは困るな。お客さんになんと説明すればよいのか。。。」
もの凄くありがちな光景である。イテレーションごとに現物を確認していても、同じ機能を何度も修正している間に、マーケティング担当者の想定と現物がズレてきてしまったのだ。
その後もシステムはどんどん複雑化することが予想されたので、たまチームとしても何か対策を打たざるを得なくなった。仕様書を書こうということになったのだが、常に変化し続けるシステムの仕様書を維持管理することの難しさは重々承知している。そこで、どのようにドキュメントを管理したよいかを入念に検討して以下の指針を作った。
- 分かりやすさ: XXXを知らない人でもシステムの目的・機能要件が理解できること
- 網羅性: 要件が一通りカバーできていること
- 探しやすさ: 必要な情報をすぐに見つけられること
- ステータス管理: 要件ごとに「実装待ち」「実装済み」「検証済み」のようなステータスを管理すること
- 変更容易性: 文書の内容が常にup-to-dateになるように、変更のコストを最小化すること
- テスト仕様書: この文書を見ながらシステムを操作して要件をテストできること
今回のお題である「Lean Documentation」に書かれている指針と大体同じである。Lean Documentationで紹介されている「良いドキュメンテーションのためのルール」は以下の通り:
- 素早く書けて更新出来るようにする。現状を反映してない情報は、まったく情報が存在しないことより有害である。
- 簡単に正しい回答を得られること。必要な情報が見つけづらければ誰もそれを利用しなくなる。
- ドキュメンテーションが対話を置き換えるわけではない。「プロセスやツールよりも、個人や対話に重きを置くべきである(Manifesto for Agile Software Development より)」。
変更容易性はかなり重要な要件で、これを考えるとWordやExcelなどで仕様書を管理することの問題がよく分かると思う。プロジェクトメンバー全員で情報を共有しつつ、かつ変更も容易に行えるとなると、データベース的な仕組みがどうしても必要になる。
昨今の開発プロジェクトだとWikiで仕様を管理することも多いのではないかと思う。しかしWikiでも、まだ変更容易性に若干の不満があり、ステータス管理やフィードバックなどの扱いに難がある。そこで、たまチームではチケットシステム(具体的には GitHub の Issues)を試してみることにした。
仕様を独立した小さな単位に分割してチケットとして管理すれば、その単位でステータスを管理したり、フィードバックをチケットのコメントとして行えるようになる。変更についても、そのチケット自体を修正したり、破棄したり、また新しく作ったりと、より柔軟に行える。どのような機能が修正されたかも把握しやすい。
全体の構成について、Lean Documentation では「Structure it like Google Earth(グーグルアースのように構造化せよ)」というプラクティスが紹介されている。全体像から詳細に向かって徐々にズームインしていく仕組みがあれば、情報が格段に見つけやすくなるというわけだ。たまチームでは、細かい単位であるチケットだけだと全体像が見えないので、Wikiページに概要とチケットへのインデックスを作った。
「さて、これで完璧なドキュメントが出来上がったぞ(ドヤァ)」
数ヶ月後、苦労して作ったドキュメントは誰にも読まれなくなっていた。読まれないので更新もされない。ドキュメントは徐々に現実からズレていく。
つまり、大失敗である。
原因は一体何だったのだろうか? Lean Documentation にあるように、ドキュメントがマーケティング担当者のニーズに沿った構成や内容になっていなかったのだろうか(「Practice 1 – ドキュメントの利用者とその目的を特定せよ」)?
マーケティング担当者曰く「GitHubを見ることが習慣化していないというのと、同じフロアにいるので、つい直接尋ねてしまう。」
ドキュメンテーションを成功させるために、最も重要でかつ最低限必要なことは「(継続的に)読まれること」である。
このことは文書そのものをどう書くかということよりも遥かに重要である。文書が適切に書かれるから読まれるのではなくて、読まれるから適切な形に変わっていく。読まれなければその文書は死んだも同然である。
ドキュメンテーションというのは固定化されたものではない。コミュニケーションの記録である。口頭の対話は記録されないが、ドキュメンテーションという対話は記録され、かつ構造化される。かなり効率は落ちるが、その記録が残ることの価値はかなり大きい。
ここで重要なのは、「読まれること」は「読ませること」ではないということだ。「GitHubを見ることが習慣化していない」という人に対して「じゃあ、習慣化して下さい」と言うのは間違っている。ドキュメンテーションを行うものは、その文書を読んでもらうためのあらゆる努力をしなければならない。それには、Web上にブログを開設して読者を集めることと同様の難しさがある。
仕様を表現するための一手法である「Specification by Example」も、手法としては素晴らしいと思う。Living document のコンセプトも良いし、Given-When-Then 形式の Acceptance Test Scenario(あるいは、Acceptance Criteria)も分かりやすく書きやすい。実際に、たまチームの一つのプロジェクトでは英語話者と日本語話者が効率的にコミュニケーションするためにこのフォーマットを採用している。しかしこれでも「読まれること」とは、全く別次元の話なのだ。
ビジネスパーソンとエンジニアは、そもそも異なる言語で会話をしている。アジャイルコミュニティではドキュメントの限界を理解しつつも、テストプログラムに通じる形式的な文書を、いかにビジネスパーソンに読ませる(書かせる)かということに苦心してきた。しかしこの試みも Fit の失敗 に代表されるように、うまく行っているとは言えないように見える。ビジネスパーソンとエンジニア、両者の想定があまりに違うのである。
書いたものを読んでもらうというのは、人を動かすということである。Stackoverflow の共同創業者で、Joel on Software で有名な Joel Spolsky 氏は、編著「The Best Software Writing I」の中で「ストーリー」の重要性を説いている(「”Show, don’t tell” rule」)。いくら内容が正しくとも、ストーリーなき文章を長々と読めるわけがないというわけだ。
ストーリーなんて仕様書のような形式的な文書とは関係がないと思うだろうか? アジャイル開発で要件の単位となる「ユーザーストーリー」は、形式的表現に慣れているエンジニアからビジネスパーソンに歩み寄った結果として生み出されたものだ。ドキュメンテーションとはコミュニケーションであり、その質にはコミュニケーション能力がそのまま反映される。だからこそプログラミングそのものよりも難しいと言っても過言ではないように思える。