『システムの科学』を読み解く (2) – 経済学ってそもそも何なのか問題

第2章は経済学についての話。

経済学に登場する、消費者や企業、市場といったものを、外部環境に適応する人工物と捉えて、その適応のメカニズム(前回の言葉で言えば「インターフェース」)を経済学的に考える。

ところで、筆者は経済学のことを何も知らない。いや、「何も」知らないというのは語弊があるかもしれない。この「ゆびてく」でも以前、「取引コスト」や「フランチャイズ」、あるいは「規模の経済」という話題に触れてきた。

入門的な本も過去に何冊かは読んだ事がある(内容を覚えているかどうかは別にして)。しかし、この第2章の内容を検討している間に分かった事は、自分がいかに経済学というものを理解していなかったのかという事実だった。なので今回の話は、大学などで経済学を勉強した人にとっては何を今更という話になるかもしれない。でも、筆者にとっては目から鱗の体験だったのである。

今回はその筆者の試行錯誤の記録を通して『システムの科学』の議論を紹介してみたいと思う。何故『システムの科学』が重要なのかと言えば、それが「分野横断的」だからである。そして分野を横断するときに、おそらくこのような試行錯誤を避けては通れない。

そもそも経済学とは何なのか?

『システムの科学』第2章では、「適応」を実現する最も重要な概念として「合理性」というものが登場する。経済学によれば、人間が合理的な生き物であるが故にマーケットの中で需要と供給の均衡が実現できるのだと言う。いわゆる「神の見えざる手」というやつだ。

supply_demand

このとき、古典的な経済学では合理性というものを以下のように考える。マーケットの中で合理的に行動するというのは、客観的に存在し得るあらゆる選択肢の内、その人にとっても最も得になるものを選択することである。これを『システムの科学』では「実質的合理性 (Substantive rationality)」と呼んでいる。「実質的」という言葉がどうもぴんと来ないので、ここでは代わりに「完璧な合理性」と呼ぶ事にしよう。

さて、経済学の最重要概念だったこの「完璧な合理性」に異議を申し立てたのが他でもないサイモン氏だ。冷静に考えると「客観的に存在し得るあらゆる選択肢」を想定する事も無理筋なのに、損か得かを判断するためには、それらの選択肢が将来的に及ぼす影響も完全に想定していないと「最も得になる」かどうかなんて分からないぞ、と。そもそも人間は、経済学が想定するような完璧な合理性を実現するには程遠い能力しか持ち合わせていないんだから、合理性は限定的に成らざるを得ない。つまり、「限定的な合理性 (Bounded rationality)」というものを想定しなければならないのではないかと。

このくだりに遭遇した時の筆者の反応は「え… ん? 当たり前だよね?」というものであった。しかも、調べてみれば、サイモン氏がノーベル経済学賞を受賞するきっかけとなったのは、この「限定的な合理性」の発見だと言うではないか。

「何が凄い発見なのか全然分からない…」ということで頭を抱えてしまった筆者は、そもそも経済学の議論を理解していないと話にならないのかもと思い、何冊かの入門書に当たってみる事にした。そこで出会ったのが以下の本である。

ミクロ経済学の力
ミクロ経済学の力

最終的に辿り着いたこの本で、ようやく理解したのは「経済学というのは計算可能性を問題にしている」ということだった。つまり、有名な需要と供給のモデルも、ある前提条件の下に数学的に計算可能であるから「経済学的に」意味があるというわけだ。今までそんなことも知らなかったの? と思われるかもしれないが、経済学の多くの入門書では案外この事が説明されていないのである。一般の人が手に取る多くの入門書では、元々は計算から導かれたと思われる法則を応用した政策の提言的な内容が多く、そこから計算という雰囲気は極力排除されている。おそらく数学的に説明しようとすると多くの読者が逃げてしまうからだろうと想像するが、そのために経済学とはそもそも計算モデルを開発する事なのだと言う理解にはなかなか辿り着けない。

ミクロ経済学が(合理的行動の原理や数学モデルを使って)導き出す結論の多くは、例えば「価格が上がると、供給が増える」というような、常識でも十分理解できるものが多い。物理学のように「光速に近いロケットに乗ると時間の進み方が遅くなる」などというアッと驚く結論がつぎつぎに出てくるわけではない。ではなぜ、数理モデルなどわざわざ使って持って回った分析をするのか、はじめから常識をなぜ使わないのかというと、それはわれわれの議論に「大きな見落としや、論理の穴」がないかをチェックする有効な方法だからである – ミクロ経済学の力

この経済学的なモデルの役割に気づけなかったのは、自分がソフトウェア開発者だからという事もあるかもしれない。ソフトウェア開発というのは日常的にモデルを扱う仕事だ。しかし、ここでのモデルは他人とコミュニケーションするための言語としてのモデルである。意図が通じれば良いのでモデルの厳密性などは問題にならない。重要なのは、相手の文脈を踏まえて「納得のできる」モデルを提示する事だけである。

限定的な合理性が開く可能性

さて、これで「限定的な合理性」の重要性が少しずつ見えて来た。計算可能性を重視するからこそ、「完璧な合理性」とそこから生まれる完全競争のモデルから脱却するのはなかなか難しいだろうと想像出来る。つまり、そこでは計算可能性を実現するために、人間あるいは社会をかなり単純化して見ているわけだ。そこには当時の環境から得られる経済学者自身の計算能力の問題もあったのかもしれない。

サイモン氏が「限定的な合理性」という考え方を発見したのは、彼が1950年代に、経済学の知見を経営学に応用しようとしたのがきっかけになっている。経済学のモデルを別分野の現実的な問題に応用しようとして初めて色々な問題が見えて来た。現実の人間は、経済学の合理性を実現するには圧倒的に能力が足りていない。もっと現実的なモデルを作るためには、人間そのものの限界、つまり「内部環境」の条件について我々は知らなければならない。

人間の限界を明らかにしてそこから計算可能なモデルを開発しようとすれば、経済学から離れてあらゆる分野の知見が必要になってくる。その必要性が彼を心理学やコンピューター科学に向かわせ、さらには人間の脳の中で行われる情報処理、つまり認知科学や人工知能と言った新しい分野を開拓させる原動力になった。

サイモン氏は、1956年に開催されて「人工知能 (Artificial Intelligence)」という研究分野の起源となったダートマス会議において、世界初の人工知能プログラムと呼ばれる「Logic Theorist」のデモンストレーションを行っている。

企業組織の研究と人工知能の研究はかけ離れているように見えるが、どちらも人間の問題解決能力と判断力の性質への洞察を必要とする。サイモンは1950年代初めにランド研究所でコンサルタントとして働いており、普通の文字や記号を使ってプリンターで地図を描いたのを見ている。そこから彼は記号を処理できる機械なら意思決定をシミュレートできるだろうし、人間の思考過程すらシミュレートできるのではないかと考えた。 – Logic Theorist – Wikipedia

 

手続的合理性

前回の人工物のモデルに経済学の考え方を導入すると以下のような形になる。

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外部環境はその経済主体(経済活動を行う人や組織)と関わりを持つ他の経済主体の集合によって定義される。そして、内部環境は主体の「目標」と「能力」によって定義される。

古典的な経済学のモデルだと、主体の「能力」は考慮されず(あるいは全知全能と言っても良いかもしれない)、「目標」はそのまま「完璧な合理性」を意味する。外部環境と目標だけ分かれば、その主体についての行動を予測する事が可能な、完全競争のモデルである。それとは対照的に、「限定的な合理性」を考慮する場合は、経済主体の「能力」が問題になってくる。

つまり、合理性というのは人間がどのように振る舞うのかということを計算可能にするルールのようなものだ。完璧な合理性の下で、そのルールはかなり単純なものであった。では、限定的な合理性の下でそのルールはどのようなものになるだろうか?

完璧な合理性、つまり全知全能モデルでは、人間は常に最適な選択肢を知っているので単にそれを選ぶという話だったが、全知全能でない、限定的な合理性しか持ち合わせない人間の場合、自分にとって出来るだけ得になるような選択肢を探すそのプロセスが大事になってくる。つまり、ここで合理性の問題は「選択肢の優劣」から「良さそうな選択肢をどう探すか」という問題にシフトしている。この「良さそうな選択肢をどう探すか」問題を『システムの科学』では「手続的合理性」と呼んでいる。

満足出来る選択肢を探す

サイモン氏は、「良さそうな選択肢をどう探すか」問題を、以下の二つに分けて考える。

  • 探索: 限られた能力で選択肢をどう探すか?
  • 判断基準: 見つけた選択肢を選択するかどうかの判断はどのように行われるのか?

完璧な合理性の下では、客観的に考え得るすべての選択肢を知っているという前提なので「探索」をする必要はなく、選択肢の中から最適なものを選ぶ際も「効用関数」という統一的な判断基準を持っている。しかし限定的な合理性の下では、主体は自分の持つ能力を駆使して選択肢を探さなければならない。例えば、旅行に行く計画を立てるとして、あなたは自分の目的に沿ったプランを出来るだけ安い予算で実現させたいと思う。この場合、交通手段や宿泊場所といった選択肢をどうやって見つけ出せば良いのだろうか?

この選択肢を見つけ出すコストを、経済学では「取引コスト(transaction costs)」と呼んでいる。このコストを肩代わりするためにマネジメントや会社組織の存在が必要になる、という話を「UberやAirbnbが経済にもたらす革命的なインパクト」で書いた。旅行の場合は、取引コストを肩代わりする旅行代理店という組織が存在する。ところが、インターネットの出現によって、そういった探索が劇的に効率的になり、マネジメントや組織の存在意義を揺るがす事態になった。

限定的な合理性の下で、どの選択肢を選ぶのかという判断基準について、サイモン氏は「満足化」というモデルを提案している。これは簡単に言えば、人は見つけ出した選択肢の中から「満足」出来そうなものを選ぶ、という至って当たり前的な行動パターンである。重要なのはこの「満足化」をいかに計算可能にするかということで、氏は心理学の「要求水準」というモデルを援用している。

要求水準は、人が何かに満足するかどうかについて、その人の過去の実績(経験)を元に基準を設定するという考え方である。過去の実績を上回れば満足し、下回れば不満となる。つまり、同じものに対しても人によっては満足したりしなかったりすることになる。これは「主観」というものをなかなかにうまくモデル化しているのではないかと思う。

心理学には要求水準の程度を測る「内田クレペリン検査」というものがあり、今でも職業適性検査として活用されている。

簡単な一桁の足し算を1分毎に行を変えながら、休憩をはさみ前半と後半で各15分間ずつ合計30分間行う検査です。全体の計算量(作業量)、1分毎の計算量の変化の仕方(作業曲線)と誤答から、受検者の能力面と性格や行動面の特徴を総合的に測定します。

 

まだまだ先は長い

というわけで、今回は経済学ってそもそも何なのかという話から、サイモン氏がそれまでの古典的な経済学を支配していた「完璧な合理性」に代わる「限定的な合理性」を提案し、能力が限定的である人間の振る舞いとはどのようなものであるかを、あらゆる分野を駆け巡って考え抜き、最終的に「要求水準」による「満足化」の理論に辿り着くところまで紹介した。この成果はノーベル経済学賞として評価されているわけなので『システムの科学』の中でも相当に重要な議論である事は間違いない。しかし、まだ第2章に入ったところで先はまだまだ長い(全8章)。こんなところで息切れしている場合ではないのだが。。それにしても疲れた (;´д`)

(まだまだ続きたい所存)

規模の経済と理想主義

クラウドファンディングで有名な Kickstarter のCEO、Yancey Strickler氏の提言。

利潤のみを追求する大資本が地域社会や多様性を壊して行く。数字至上主義に対して我々は何ができるか?

先月、UberやAirbnbに代表されるシェアリング・エコノミーについてのTim O’Reilly氏の論考を紹介したが、そこで経済的効率性からフランチャイズチェーンが生まれる過程について触れた。そういったチェーン、つまり大型のスーパーやファーストフード、コンビニと言ったものが、地域社会に根付いていた商売 ― 商店街などが象徴的であるが ― そういったものを根こそぎにしてしまうというのは高度経済成長期以降の日本でもよく見られた光景である。筆者の地元(千葉の田舎)にあって、かつては賑わいを見せていたアーケード街も、数年前に帰省した際に訪れてみたら、アーケード自体が撤去されて、営業している店もほとんどなく「兵どもが夢の跡」状態になっていた。

ニューヨークでは、新しく入ってくるビジネスの多くが銀行であるという。現在では1800以上の銀行支店がニューヨークに存在し、10年前より60%以上増加している。ニューヨークタイムズの調査では、ほんの158の家庭がアメリカ大統領選に投入される資金のほぼ半分を提供していることが判明している。音楽業界では、全米で行われるコンサートの8割がTicketmasterというチケット販売会社に独占され、レコードレーベルの多様性も失われつつあり、ヒットチャートTOP40の内、驚くべき割合の曲がたった4人の北欧出身の人間によって書かれているという。そして、ハリウッドでは、リスクを回避するための続編や前日譚といったシリーズ物が溢れている。

「お金」という単一文化(モノカルチャー)に我々はどのように対抗したら良いのか? 資本主義社会の中で生活する以上、その社会からドロップアウトして隠遁生活でも始めない限り、そこから逃げるのは至難の業のように思える。

Strickler氏は、そういった社会の中で生活しながらも、現実主義に陥らずに理想主義を貫くことが大事だと説く。自分が働く業界の標準に迎合しないこと。自分が正しいと信じる道を貫くこと。現状に満足せず、常に新しいアイデアを探し求めること。そして、短期の利益を追い求めるばかりに、長期の努力を軽視しないこと、持続可能性を考えること、など。

世の中が「規模の経済(economies of scale)」に向かって邁進して行く中、Strickler氏以外にも、その価値観に疑義を呈する人たちがいる。その中でも有名なのが、このブログの連載「TDD再考」に度々登場する Ruby on Railsの作者、David Heinemeier Hansson (DHH) 氏である。

ビジネスの世界ではより大きな数字を追い求める数字至上主義が蔓延しているが、例えば、ハーバードやオックスフォードといった有名大学の価値はそのような「数字」では計れない。であるならば、ビジネスの世界でも、組織ごとに適切なサイズというものがあって良いのではないか? 「小さい」ことを大きくなるための通過点として捉えるのではなく、「小さい」こと自体をゴールにしても良いのではないか?

DHH氏は2008年にもYcombinatorが主催するスタートアップスクールで、「ベンチャー・キャピタルからお金をもらって次のFacebookを狙うのをやめよう!」というスピーチをしており、投資を受けてイグジットを目指すシリコンバレー的なスタートアップ文化を批判していた。

  • 次のfacebookを目指してなんの意味がある? Ruby on Rails 作者が語る「お金を生み出して幸せになるためのたった1つの方法」 – ログミー

Facebookのような巨大企業を目指すためにあらゆることを犠牲にするよりも、自分達が良いと信じられるものを、自分達のペースで継続するのに必要最低限の規模を目指すこと。

ほかにもイタリアンレストランがたくさんあるなかで小さなイタリアンレストランでうまくいっているところがたくさんあるようにたくさんの勝者がいていいし、小さな問題を解決している会社が世の中には山のように存在する。そういった会社は2000とか10000の顧客を持っていて、何度も生まれて来た素晴らしい企業の多くは200の顧客からスタートしている。例外はFacebookのような会社で紙の上では2年で1.5兆円の価値になっている。あんな会社をロールモデルにしてはいけない。

そして、そのようなイタリアンレストランを目指すことは第二のFacebookを目指すよりも遥かに容易であるし、実現できれば、たとえ規模はささやかであっても素晴らしい達成なのだとDHH氏は言う(「人生の楽しみ方にはいろんな部屋がある」)。

UberやAirbnbが経済にもたらす革命的なインパクト

オライリーメディアの創始者であるTim O’Reilly氏の論考。「シェアリング・エコノミー」と呼ばれる、UberやAirbnbといった新時代のサービス。このようなサービスの出現は、単なる雇用形態の変化などではなく、これまで我々が当たり前だと思っていた経済の構造を、根本から変えてしまうようなインパクトを持つ歴史的な出来事なのだと O’Reilly氏は主張する。

「会社」というものが存在する理由

現代社会で働いて生活する我々は、ほとんど例外なく何らかの形で「会社組織」と関係している。多くの人は会社に所属して働いているだろうし、そうでない人もどのような形であれ会社というものに関わりを持っているはずである。今となっては我々の経済活動から会社というものを切り離すのは不可能であるように思える。では、この会社というものが存在する理由は一体何なのだろうか?

アダム・スミスが『国富論』を発表した18世紀。多くの経済学者は、経済システムがうまく機能するために「中央管理」は必要ない、むしろ有害でさえあると考えていた。市場の自律的な仕組みに任せておけば、いわゆる「(神の)見えざる手」によって自然にバランスが保たれ、経済はうまく回るはずであると。

この分散型自律経済の考え方はその後もしばらく経済学の主流であったが、20世紀に入って初めてその考え方に疑問を呈したのがアメリカの経済学者ロナルド・コース(Ronald Coase)である。コースは、市場の中で取引が成立するためには、自律型経済の考え方では想定されていないコストが必要になる事を発見した。例えば、需要と供給はどうやってお互いを発見するのか、価格を決定するための交渉はどうするのか、契約も締結しなければならないし、立場の違いから揉め事も起こるだろう。このような問題を解決するためのコストを「取引コスト(transaction costs)」と呼び、このコストこそがマネジメントや会社組織の存在が要請される根本要因だとした。

21世紀型フランチャイズの出現

コースの理論によれば、会社によって提供されるマネジメントのコストが市場で本来かかる取引コストを下回る限り、会社は存在し続ける事ができる。しかし、会社が大きくなって、その管理コストが市場の取引コストを上回るようになると、会社の存在意義は怪しくなる。この規模拡大によるコストを抑えようとして生まれたのがフランチャイズの仕組みである。マネジメントを行う組織を出来るだけ小さくし、各地に分散した事業者はネットワークを形成してそのマネジメントのサービスを受ける。

しかし、もし市場でかかる取引コストが劇的に下がって、マネジメントにかかるコストを下回った場合、どのようなことが起こるだろうか。そのようなことが実際に起きているのが、今我々が現在進行で経験している「インターネットの時代」である。インターネットが取引コストを劇的に削減する、というのは、GoogleやAmazonがそれまでの市場をどう変えたかを考えれば、そのインパクトを容易に想像出来る。それまでのフランチャイズの仕組みでは避けようがなかった店舗や販売にかかるコストがほぼゼロになり、さらには経験を積んだ管理職が担当していた、商品と顧客のマッチングもソフトウェアによって置き換えられた。つまり、それまでに存在していた会社組織は、その多くが(店舗や一部のマネジメントに至るまで)不要となり、その存在意義や構造を大きく見直さなければならなくなった。

このインターネットによる革命の新たな波がUberやAirbnbといったシェアリング・エコノミーである。シェアリング・エコノミーによって生まれた新しい経済構造を、O’Reilly氏は「個人のフランチャイズ化(The franchise of one)」と呼ぶ。テクノロジーの進歩によって、フランチャイズの末端を構成していた小さな事業者のネットワークは、自身のリソース(Uberでは車とその運転、Airbnbでは家)をパートタイムで提供する「個人」のネットワークに置き換わった。

個人のフランチャイズ化によって、会社のフランチャイズでは提供出来なかったような広大な選択肢(「excess capacity」と呼ばれる)を顧客に提供出来るようになる。例えばUberの場合で言えば、広大な選択肢とは、これまで想定しなかったような場所やタイミングでタクシーを利用出来るようになるということであり、この選択肢の増大が結果としてUberの利用者を増やし、それが価格を下げてさらに需要を拡大するという好循環を生むことになる。

集中型から分散型、そしてまた集中型へ

ロナルド・コースによって理論的な根拠が与えられた集中型の経済構造は、インターネットが出現して18世紀にアダム・スミスが信奉した分散型に形を変えた。個人のフランチャイズ化によって、その傾向はますます強くなっているように見えるが今後はどのように変化していくのだろうか。O’Reilly氏は、いずれまた集中型へ向かうだろうと予測する。インターネットが出現したとき、それは個人と個人を結びつけるネットワークだった。それが時を経て、今では情報の流通を仲介するYahooやGoogleような数多の企業が生まれている。シェアリング・エコノミーの世界でも同様の事が起こるだろうというのは確かに想像に難くない。