Kubernetes の登場でインフラ担当の仕事はますます曖昧になっていくような気がする

アプリケーション開発者は Dockerfile を作るところまで、インフラ担当はサービス構成とデプロイメントパイプラインを整備する、という分担を考えていたけれど…

マニフェストファイルを作ってサービスの構成をデザインしたり、ビルドスクリプトを書いて自動デプロイを実現するのも、もうアプリケーション開発者のレベルで出来る。ここを無理に分業すると、むしろ k8s が提供するサイクルの短さを享受出来なくなる可能性がある。サービスが出来上がってからインフラを移行するというのは k8s の考え方に合わないので、開発の初期から k8s 上で育てるのが標準的なモデルになるが、そのモデルに則って開発して行けば、開発者は無理なくそのプラットフォームを使いこなせるようになる。

つまり、DevOps の問題が、Kubernetes によるマイクロサービス化によって、ますます深刻になる可能性がある。アプリケーション更新のサイクルとインフラ更新のサイクルが限りなく近づいたとき、そこにどこまでのコミュニケーションコストを許容出来るだろうか。

チームとして分かれていることのコミュニケーションコストは決して過小評価することは出来ない。

では、インフラチームは Kubernetes クラスタの管理やモニタリングを担当するようにしたらどうか?

筋的には悪くない気もするが、GKE のような環境が充実してきた時に、アプリケーション開発者が自身で出来る領域はさらに広がって行くのではないかと思う。

さらには、Kubernetes のような環境に適応出来る・出来ない、という形でも大きな分断が起きて行きそうな予感もある。

Kubernetes に限らず、インフラの自動化を進めるためには、アプリケーションパッケージのポータビリティが重要になってくる。しかし、そのようなことを意識して開発しているプロジェクトは案外少ないのではないだろうか。例えば、Twelve-Factor App みたいな指針を全く知らないというのも珍しくないのではないか。そうなると、インフラ担当はアーキテクチャやソフトウェアデザインを指導する立場になるが、これは結構広範な指導を必要とするし、そのような規律を快く思わないエンジニアも多い。

一方で、Twelve-Factor App みたいな指針に慣れているエンジニアは、上に書いたように、自分でアーキテクチャや自動化の基盤を作って行けるので、自律してサービスを開発出来る。

アプリ開発もインフラも、一つのチームに閉じることに越したことはないけれど、多くの組織ではそんな贅沢は許されないだろう。組織全体でインフラを刷新していくためには、どうしても独立したインフラチームが必要になる。でも、マイクロサービス開発のサイクルの短さに合わせて、チーム間のコミュニケーションコストを下げて行くのは至難の業のように思える。

DevOpsの起源とOpsを巡る対立 | ゆびてく

組織やチームの話を追いかけると、プログラミングは基礎教養なんだって話に辿り着いてしまう件

まさにそんな感じの話がInfoQで紹介されていた。

受託開発でアジャイルというのはほとんど語義矛盾ではないだろうか

ここ最近、立て続けにアジャイル絡みの事を書きながらこぼれ落ちた考えをここに書き留めておく。

筆者にとってアジャイルというのは、かなりの程度、個人的な問題だということはまず認めておかなければならない。

個人的だと思う背景には、(自分にとっての)アジャイルというものを、それを知らない人に伝達する事の難しさをつくづく痛感しているからである。

アジャイルはそもそも道具ではない。すでに書いたように、アジャイルというのは価値観であるし、もっと言えば文化だと言っても差し支えないだろう。

人間の集団の中で理屈抜きで共有出来る何らかの価値観があれば、それを文化と呼ぶ。

例えば、一つの組織の中で、ある事が組織の利益になるから同意するというのは、基本的に契約の問題であって文化ではない。つまり、組織にとって利益になるからアジャイルを導入しようという(ベタな)言明はそもそも成り立たない。

アジャイルが結果的に組織にとって利益になるという事は当然あり得るが、利益になるからやるという順番だとそれはもはやアジャイルではない(それが「道具ではない」ということの意味だ)。このようなジレンマが文化というものには必ず付いて回る。

文化を築くのには気が遠くなるほどの時間と幸運が必要になるが壊れるのは一瞬である。特に営利組織の中で働いていて、その利益以外の事で価値観を共有するというのは基本的に至難の業である。

アジャイルはもう終わったという話が度々出てくるが、そのほとんどはハイプ・サイクル絡みの話だった。そもそも無理筋なことをやろうとしていた、というだけのことではないだろうか。

アジャイルはそもそも「無理」から出発した方が良いのだろう。

アジャイルはソフトウェア開発にクリエイションを持ち込もうとしたが、ほとんどの現場ではそんなものを求めていなかった。

日本ではソフトウェア開発の多くが受託開発だと言われている。

受託開発というものがそもそも「アイデアを他者によって実現してもらう」という考えで成り立っている以上、開発側にクリエイション(アイデアをいかに発見するか)が入り込む余地がない。

文化という側面で言えば、人に頼まれて何かをやるという仕事の方式そのものが減点ベースの評価にならざるを得ず、アジャイルとそもそも相容れないと言う事も出来る。

これは受託開発だったらウォーターフォールという選択の問題ではない。人に頼まれて何かをやるときは「交渉」が最重要事案になるというだけだ。

自分達で発見したものを世に問うという仕事に就きたいというのは完全に価値観の問題であって、多くの人にとっては「人に頼まれて何かをやる」のがそもそも仕事の定義であり、その上で生活が成り立っている。社会全体としては価値を生み出していなくても「交渉」によってお金を回す事は出来る(それが持続可能なのかは別にして)。

アジャイル最大の難点は、当たり前だが、そこで価値の発見が保証されているわけではないというところだろうか。以前、スティーヴン・キング氏の自伝「On Writing: A Memoir of the Craft」を紹介したが、それを読めば誰もが小説が書けるわけではないのと同じように。

何が見つかるか分からない状況で旅に出ることをこの上ない喜びと感じるか、そんな博打を打っていたら生活が成り立たないと嘆くか、そこが文化の分かれ道かもしれない。

アジャイルはプログラマーに万能を求める。

アジャイルの問題意識がそもそも役割の分断にあるので、必然的に分断された役割を小さな範囲に集約していくことになる。そこを突き詰めると、それは単にフルスタックエンジニアになるというレベルを超えて、各人が自律したマーケターになることも要求されるようになる。

興味深い事に、これはマーケティング分野の側でも同じような事が言われているようだ。

アジャイルにおいて創造のエンジンを担っているのはプログラマーの側である。その外側にいてアイデアや舵取りの責任を持つ人間の存在はアジャイルにとっては単なる非効率に過ぎない。技術がイノベーションの源泉になっている、あるいはそのような組織を目指しているのなら尚更、外側の人間がアジャイルのエンジンに噛み合って仕事ができるという幻想を捨てなければならない。

しかし、冷静に考えてみよう。こんなことが可能な環境や組織が果たしてどのぐらい存在するだろうか? あるいはそれこそがクリエーションの希少性と呼べるものなのかもしれないが。